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様々な二条城

二条城の歴史

江戸時代、徳川家康によって二条城は創建されました。関が原の戦いで勝利を納めた家康は、上洛時(京都にあがるとき)の宿所として、二条城の築城を決めたのです。幕府は二条城と呼んでいましたが、朝廷は二条亭と呼んでいました。

創建

徳川家康徳川家康は、慶長6年5月から、二条城を建設するために町屋の立ち退きを開始しました。立ち退きが終わると、西国の諸大名に、造営のための費用と、労務の割り当てを行いました。

京都所司代・板倉勝重を造営総奉行に、中井正清を建築の大工棟梁に命じました。慶長7年に着工し、御殿は翌年3月に、天守はそれからさらに3年後に完成します。

徳川家康は慶長2年に征夷大将軍の命を伏見城において受け、翌3月には、できて間もない二条城に入城することになります。この頃、『拝賀の礼』といって、朝廷に挨拶をするという行事が室町時代からありました。

家康も慣例にもれず、御所に向けて行列を出し、さらに二条城では重臣、公家を招いての、将軍に就任したお祝いの儀を行いました。この週間は、第3第将軍・徳川家光の代まで続けられました。

大阪の役

慶長19年に起きた大阪の役。大阪夏の陣、冬の陣をまとめた呼び方ですが、慶長20年、大阪夏の陣において、二条城に火をつけて混乱させ、その混乱に乗じて家康の命をとろうとしていた陰謀が明らかになり、古田織部の家臣(家来)が捕らえられました。責任を取り、古田織部は家財を没収された上に切腹という事件もありました。

大改築

小堀政一元和2年に家康が没し、第2代将軍秀忠が行った二条城の改修に続き、第3代将軍家光の代では、後水尾天皇の行幸(ぎょうこう)を迎えるための二条城の大改修を行いました。

小堀政一、五味豊直を作業奉行に任命して改修が行われました。天皇の行幸は5日間にも渡って行われ、その間は能楽や舞楽、乗馬や蹴鞠、和歌の会などが開かれ、二条城の最盛期とも言われほどでした。

その後秀忠なきあと、家光が上洛のために二条城に入城したのを最期に、幕末までの230年もの間、二条城は将軍を迎え入れることはありませんでした。その230年の間、主のない二条城は風雨にさらされ、雷が落ち、徐々に老朽化していきます。相次ぐ雷や、大火により、天守、本丸御殿、隅櫓などが焼けてなくなってしまいます。

その後、二条城を管理するための役職が設けられましたが、将軍のいない二条城が幕府の政庁として使われることはありませんでした。

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幕末

徳川家重長いときを経て、二条城も幕末を迎えます。第14代将軍・徳川家重が上洛するため、二条城の改修が行われました。

全面的に修復が施された二の丸御殿に、焼けてなくなってしまった本丸御殿には仮御殿が建てられました。しかし、入城してすぐに、長州征伐のために大阪城へ移り、そこで病に倒れて還らぬ人となります。

第15代将軍・徳川慶喜が二条城に入場したのは、大政奉還の前の月でした。10月に大政奉還により、将軍職を返上した慶喜でしたが、12月には辞官納地命令が朝廷から出たことが二条城に伝えられます。

慶応4年1月、二条城の留守役となっていた水戸藩士・梅沢孫太郎から、新政府の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡されることとなり、太政官代が設置されましたが、やがてその太政官代も宮中に移転されることになります。

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現代まで

明治3年には留守官の管轄下に置かれていた二条城ですが、翌明治4年には二の丸御殿が京都府庁舎になります。やがて明治17年になると、二条城は宮内庁の所管になり、呼び方も『二条離宮』と変りました。

明治18年に京都府の新庁舎ができたために移転、二の丸御殿の改修が2年かけて行われます。明治26年から1年かけて京都御苑の旧桂宮邸を移築して、本丸御殿としました。大正時代に入り、二の丸御殿を大正天皇即位の儀式に使用され、南門などが増築されました。

昭和14年に宮内省から京都市に下賜され、それ以来『元離宮二条城』と言う名称になりました。昭和15年に一般に公開されるようになりました。

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